函館市弁天町界隈、かつて埠頭筋と呼ばれた通りに、漆喰塗りの袖壁を左右に従える土蔵造りの重厚な商店建築が建つ。国の重要文化財であるこの「太刀川家住宅店舗」の隣に、寄り添うように佇む洋館がある。函館市の景観形成指定建築物「太刀川家洋館」である。
建設は1915(大正4)年。木造2階建て入母屋(いりもや)瓦葺き、若草色の下見板張りによる外壁の仕上げが特徴的だ。破風(はふ)や軒下に施された彫りの深い植物模様、コリント式円柱が支える函館独特の3連アーチ。隆盛を誇った大正期の函館を代表する建築物の一つである。
擬洋風の応接専用室
「うちの建物も函館の和洋折衷建築の一つの様式なんですよ」と、太刀川家6代目当主の夫人雅子さんは言う。
函館で和洋折衷建築としてよく知られるのは、この連載の第1話で紹介した小森家住宅店舗のように1階が和風、2階が洋風と、和洋の様式が上下に並んだ外観を持つ建築だ。京町家をはじめ本州以西で見られる町家建築の2階の外観が洋風になったもので、太刀川家住宅店舗もこれに属する。
しかし函館には、それ以外にも大型で重厚な町家や洋館が多く存在する。多くは内部に和室を持ち、屋根には瓦をふきながら、外観は洋風を擬して大工が建てた建築物である。それら「擬洋風」とも呼ばれる和洋折衷の建物は、豪商らにより建築され、太刀川家洋館もこの中に含まれる。
函館の太刀川家の始祖、2代目太刀川善之助は江戸期に越後国長岡から箱館(現函館)に北前船で渡り定住した。当初は米穀商、のち漁業、海産商、回漕、採氷と多角化した。その次の代の初代善吉が太刀川家住宅店舗を1901(明治34)年に建設した。
その息子で太刀川家の「中興の祖」とされる2代目善吉は、大正から昭和初期にかけて北海道で最も多くの肩書きを持った実業家として知られ、商談のための応接専用室としてこの洋館を建設した。28歳で函館米穀商同業組合長に就任し、後に北海道新聞社となる函館日日新聞、北海道銀行となる第百十三銀行、北海道電力や函館市電、函館バスとなる函館水電など数多の企業の要職に就いた。1934(昭和9)年の函館大火の際は自身の貯蔵米を炊き出しに充てるなど、被災者救済や治安維持に貢献したという。
函館の政財界の要人が、この擬洋風の建物で2代目善吉と話し込んだのであろう。彼はこの洋館について「函館や北海道のための政談や商談をするに相応しい建物を」と語っていたという。実際、1階には函館西洋家具製造の元祖とも言われる洋家具職人神永貞助の家具が揃い、2階には黒檀の床柱を据えた床の間があり、上流の賓客を迎えるに足る内装であった。
実は2代目善吉は、世界的企業ソニーの創設者の一人、井深大(いぶか・まさる)の実父の従兄弟にあたる。父親を早く亡くした井深のために学資を支援し、ソニーグループの前身である東京通信工業の設立に際して出資もしている。太刀川一族の訃報を聞いた井深が自家用飛行機で来函したとの話もあり、井深もこの洋館に足を踏み入れた一人であったかもしれない。
利用しながら維持する
たびたび大火に見舞われた函館では、レンガ造など防火の機能を持つ洋式の建築技術が取り入れられた。建築構造的に維持管理費用が負担となりがちである。そんな中で太刀川雅子さんは、太刀川家住宅店舗の一部でカフェレストランを2018年まで10年営み、また市内にある歴史的建造物のリノベーション(新たな機能や価値を付加する改装)を手伝い、「利用しながら資金を生み出して維持する」道に挑み続けてきた。
「函館の未来のために、この建物を使いこなしたい」と雅子さん。函館らしさの一つである上質な文化と環境を遺(のこ)し使いこなすことが、地域の未来のためになると。
太刀川家では目下、洋館を上質な空間を提供するゲストハウスとして活用し、隣の住宅店舗もパーティーや展示会、会議、撮影などの場として運営している。深刻な人口減や高齢化に直面する函館市西部地区は、社会的にも空間的にもリノベーションが必要とされている。太刀川家の二つの建物がこのリノベーションをけん引することを期待したい。2代目善吉が函館のまちづくりに貢献したように。(敬称略)
太刀川家洋館が初めて修復されたのは1981年。東京から太刀川雅子さんが6代目当主の夫善一さん、息子善さんと函館に戻った時である。善一さんと雅子さん夫妻はそれぞれ進学のために上京し、卒業してすぐに結婚した。立教大学を卒業した善一さんは、函館出身で日魯漁業の社長などとして北洋漁業を支え、運輸大臣も務めた平塚常次郎に相談。缶詰事業を展開する北海製罐に就職し、小樽で研修後、東京・丸の内の本社で勤務した。太刀川本家の長男が外に出たのは善一さんが初めてで、それから20年ほど東京で暮らしたという。
上げ下げ窓も内壁も
善一さんの父親は、太刀川家中興の祖・2代目善吉の息子の善平である。善平が早くに亡くなったため、善一さんが在京中は祖母と母綾子、そして番頭が太刀川家を支えていたようであるが、祖母の死去をきっかけに、善一さんは仕事を辞めて函館に戻った。
洋館の修復にあたっては、まず2階南西側にバルコニー、1階北西側に厨房を増築し、利便性の向上を図った。また、今もたくさんある縦長の上げ下げ窓の枠は腐朽していたことと、気密・断熱性能を高める必要性から、ペアガラスを用いて全て復元改修した。一つの窓の復元に、おおよそ30万円程度を費やしたようである。この上げ下げ窓は、ガラス窓の重量とバランスの取れた「オモリ」を壁内に隠し、細いロープでガラス窓とつなぐことにより、力を入れなくてもスライド式に窓が上下に動く仕掛けとなっていた。しかし、復元によりペアガラスに変更したため、薄く軽かった元のガラスと比べ窓の重量が重くなった。現在では窓が上がらなくなっている。
さらに、黒檀の床柱を据えた床の間をもつ和座敷であった2階を洋室化した。1階洋室の壁には淡いピンクにフラワーバスケットの柄の壁紙を貼っていたが、古くなり相当傷んでいたため、現在見られる漆喰風の塗壁とした。
公会堂修理の参考に
家具は本編でも述べたとおり、函館西洋家具製造の元祖とも言われる洋家具職人神永貞助の家具が揃っていたが、これも老朽化のため修復が必要であった。家具に用いられた布は絹の五重織とボーダー織で、同様のものを求めて各所に問合せたが、なかなか見つからなかった。唯一、ある業者から「ちょうど宮内庁からこの素材の発注があるので一緒に作りますか」という回答があったが、そこまではとお断りしたそうである。イタリア製の全く違う布を使って仕上げている。
椅子はたくさん残っていたが、傷みが激しく修理困難なものは他の修理の部材に転用した。後日談だが、国の重要文化財である旧函館区公会堂(函館市元町)の修理の際、参考になる椅子の布が残されていなかったようで、文化財保護の関係者が同じ年代の家具を見るために何度も太刀川家洋館を訪れたそうである。太刀川家では、修理前の椅子に使われていたオリジナルの布も保存していたことから、参考資料として提供した。函館を代表する歴史的建築物の修理に貢献したのである。
カーテン金具も元通り
フランスのゴブラン織のカーテンは長年のホコリなどの汚れがついていたためクリーニングに出したが、「こんな上等な素材は扱えない」と戻って来た。結局、雅子さんが風呂場で手洗いをした後、東京の美術館関係の仕事をしている専門業者に修復をしてもらった。カーテンには、レールにつけるための銅製の手打ちの金具が何十個も付いていた。それを再利用するのであれば一つ3千円の取り付け料がかかるが、と言われたそうだが、「貴重なものなので元通りにつけて欲しい」と伝えたとのこと。雅子さんの洋館や太刀川家への思いを表すエピソードである。
もちろん、雅子さんは建築を現代に生かすということも常に重視していることから、居住性能の向上として、電気容量の向上やコンセントの増設、壁や床下の断熱性の向上も行った。
「技術で祖国復興」
ここでは善一さんの父である善平と、弟正三郎のエピソードを紹介する。前述のように2人は太刀川家中興の祖・2代目善吉の息子。善平には正三郎以外にも弟が何人かいたそうで、とてもヤンチャな兄弟であり、よく学校から呼び出しがあったらしい。当時、太刀川家住宅店舗の前は海で、北前船を横付けして荷下ろしをしていた。子供たちは近辺の海岸沿いや屋根伝いを活発に動き回って遊んでいたようで、海に落ちたことも少なくなかったようである。
本編で述べたソニー創業者の一人、井深大は、善平や正三郎から見ると従伯父の子であるが、年も近く、また両親を早くに亡くしたため、子どもの頃から兄弟のように過ごしたそうである。井深が戦時中、長野県須坂へ疎開した際も正三郎と一緒に過ごしたという。本編のとおり、東京通信工業の設立時には、太刀川家が持ち株比率55%となる資本援助を行い、正三郎は取締役として井深を支えた。同社が1958年に「ソニー」に商号を変え、世界的企業へと展開する過程で、2人は函館の太刀川家洋館で「技術の力で祖国復興を」と語り合ったかもしれない。
教育・研究支える施設
正三郎の学んだ立教大学で太刀川家の足跡をいくつか見ることが出来る。一つは東京・池袋キャンパスにある「太刀川記念館」である。これは、正三郎が亡くなった際、あさ子夫人の寄付を基に1996年、各種講演会やシンポジウムなどを開催できる施設として建築された。あさ子夫人が亡くなった後にも篤志により財産が寄贈され、多様な人々による多彩な交流活動を目的としたコミュニケーションセンターとして埼玉・新座キャンパスに2007年、「太刀川記念交流会館」が建築された。また東京にあった正三郎・あさ子夫妻の自邸は、交流を目的としたセミナーハウス「太刀川記念上大崎交流会館」として再整備され、今も大学の教育・研究活動を支え続けている。(敬称略)