函館市電の大町電停近く、常盤(ときわ)坂の登り口に「橋谷本家」がある。「ダイボシ」の屋号で知られる明治期創業の商家の本家邸宅であり、一見すると大きな屋敷には見えない。だが、よくよく見れば洋館や土蔵、函館独特の「和洋折衷様式」の町家が複合した多様性に富む建物であることがわかる。函館の歴史的資産の一つである。
初代当主の橋谷巳之吉は現在の石川県加賀市の生まれ。函館で問屋を営んでいた同郷の橋谷家に丁稚奉公に入り、才能を見込まれて橋谷せ以と結婚。橋谷姓を名乗り、のれん分けを受けたようである。1895(明治28)年に食料品の問屋を創業。倉庫業、不動産業にも手を広げ、神戸に登記上の本社を置いて海運業も営んだ。
橋谷株式会社を中軸とするグループ会社は大型船舶6隻を運航し、取扱品は棒鱈、鰯粕、昆布、塩・砂糖、石油など多岐にわたったようだ。戦前には、北千島や満州にも支店を設けて、函館と千島、樺太、旧満州、ロシア・ソ連まで結ぶ航路を持ち、戦後は函館を拠点に不動産業などを展開してきた。
橋谷家は北前船船主の流れを汲む商家であり、函館が北方圏の拠点として発展した躍動の一翼を担った一族である。主に日本海側の航路で江戸期の蝦夷地と京・大坂を結んだ「買積み(船主が商品を買って他地域で販売する)船」である北前船は、やがて開国や近代化、汽船の普及などで航路が全国各地や海外に拡がり、北方で積む荷も水産物の缶詰やビール、食用油、洗濯石鹸などの加工品に切り替わる。商いも「運賃積み(運賃制で荷を運ぶ)」に変わってゆくが、北前船の船主たちは海運業を担い続けた。
小さな街並み形成
それら船主の主たる出身地である北陸から身を起こした巳之吉は、北前船交易により成長した函館を拠点に財を成し、日本最古のコンクリート寺院で国の重要文化財、真宗大谷派(東本願寺)函館別院の再建にも尽力した。彼は大町の好立地にあった古い建物を居宅兼店舗として手に入れ、幾度か増改築を加えた。
橋谷本家のうち伝統的な小屋組みを持つ「店蔵(ミセと呼ばれた蔵造りの町家)」は明治初期の建造とみられ、部材の一部は江戸期にさかのぼる可能性がある。その傍らで隅柱と玄関ポーチの柱の白タイルが印象的な「洋館」は大正期の建物だ。ロシア人などとの商談に用いられたのだろう。
常盤坂に面した「主屋」は1907(明治40)年の函館大火後、昭和初期までに建てられたとみられ、1階が和風、2階が洋風の和洋折衷様式。他に大正期の建造とみられる「新座敷」や「土蔵」があり、これら多様な建物群を立派なレンガの防火塀が角地に沿って包み込み、小さな街並みを形成している。
巳之吉の出身地である北陸地方の伝統様式を織り交ぜ、ヒバ、ケヤキ、紫檀などの銘木も用いて「和」と「洋」の要素を混在させたこれらの建物から、明治、大正、昭和の三代に及ぶ建築様式の変遷を見て取ることができる。
「にぎやかな家」
4代目当主の橋谷秀一は、この家で1969年に生まれた。幼いころは3世代7人が同居し、通いのお手伝いさんや大工仕事をしてくれる社員も出入りするなど「とてもにぎやかな家だった」という。「年の瀬や正月には社員や親戚が挨拶に訪れ、近隣の太刀川家などの老舗商家の人を含め、多くの人が往来していたんです」
重厚な土蔵には20組ものお膳類をはじめ、名のありそうな調度品が今も納められている。祖母けいが函館の老舗デパートなどで入手したと思われ、今ではほとんど見られない季節ごとのしつらえとしても活用されていた。秀一の子ども時代、祖母と母は掛け軸の掛け替え、玄関や床の間の花、中庭の手入れを欠かさず行っていた。
その歴史的・建築的・景観的な価値が認められて、洋館と店蔵は2022年に函館市景観形成指定建築物に指定された。函館に残る橋谷家の資産の再生に取り組む秀一は「本家は函館を拠点として世界を相手にした橋谷家のレガシーを象徴する建物」と語る。(敬称略)
近代海運の一翼担う
函館(箱館)は江戸期まで、松前(福山)、江差とともに、北前船で栄えた松前三湊の一角をなしていた。他の二湊は西廻り(日本海廻り)航路の主たる寄港地であったが、箱館は東廻り(太平洋廻り)航路が開拓されて飛躍し、国後水道を渡って択捉漁場を開いた豪商高田屋嘉兵衛によって都市基盤が築かれたことはよく知られている。
大型船の建造が制限された江戸期、「弁財船」などと呼ばれる一本帆の帆船であった北前船は、明治になって廃れたと一般に思われている。だが、実は最盛期は明治期である。西洋式の帆船や動力装置を備えた汽船が登場しても、しばらくは建造コストが安く中小の港に入港しやすい北前船に優位性があった。北海道の開拓が本格化し、広大な市場が形成されて運ぶべき荷も増えた。
中西聡『北前船の近代史』(成山堂書店、2013年)によれば、19世紀末には大資本の巨大汽船会社に対抗し、自ら大型汽船を所有して汽船での運賃積みによる経営に乗り出した北前船主たちがいた。汽船の導入による海外航路の拡大、朝鮮半島やロシア沿海州など日本海沿岸交易の活発化、日露戦争後に日本領となった南樺太と北海道間の物資流通の増大と北洋漁業の隆盛―。そうした時代背景の中で、北前船主たちは近代海運の一翼を担い、生き続けたのだった。
三つの時代の変遷
橋谷巳之吉は、それら北前船船主の流れを汲む商家の一人だった。神戸に本店を構え、函館を拠点に問屋業や海運業を営み、1927(昭和2)年、函館市海岸町に鉄筋コンクリート造2000坪の大型倉庫を造り、棒鱈や澱粉、砂糖などの商品を保管した。函館駅から鉄道の「岐線」を引いて倉庫に物資を運び、鉄道―倉庫―海運をつなぐ近代的な物流の仕組みの先駆けとなったと、『函館市史』にある。
その居宅である橋谷本家は、巳之吉が生きた明治から昭和まで三つの時代の変遷を示す建物である。
「洋館」は外観が洋風意匠でまとめられ、1階ホールの高い天井に据えられた組紐飾りのある中心飾りが印象的だ。2階は銘木を凝らした和風の造り。座敷を隔てる欄間は鹿や楓をモチーフとした中国風意匠の透かし彫りである。
一方、「新座敷」には加賀の山中温泉の風景をモチーフとした欄間が張られ、「洋館」2階の欄間と作者は同じである。「主屋」にある浄土真宗に由来する豪華な仏壇とともに、浄土真宗信仰が強く、木彫刻文化の有名な北陸地方にルーツを持つ橋谷家の由来を伝えている。
明治期の店蔵とレンガ造防火塀から、大正期の洋館、土蔵、新座敷、そして昭和初期までに建てられたとみられる主屋へ―。一つの敷地に連続して建てられた明治、大正、昭和の建物がそろっているところに橋谷本家の特徴がある。
歳月を経て、函館山から流れ降りる水の影響もあって傷みはあるものの、4代目の現当主橋谷秀一は、この建物を港町・函館の地域史を象徴するものとして大切に扱う考えだ。洋間や店蔵といった建物は、秀一が生まれた時から既に使用されていないものがほとんどだが、その存在は今も我々に橋谷家が経てきた歴史を感じさせる。
れんが倉庫を貸別荘に
初代の巳之吉は沖縄で砂糖を仕入れ、函館で販売していた。それゆえに、秀一は家を訪れる人達から「ダイボシさんの息子」「砂糖屋の息子」と呼ばれながら育ち、「なんとなくだけど、4代目としての意識が培われてきた」と語る。
秀一が力を注ぐのは、函館に残る資産の再生だ。2020年には橋谷株式会社が函館市弁天町で所有する1898(明治31年)建築のれんが造りの倉庫を改修し、1棟貸しの別荘「プレ・デ・ラ・メール」としてオープンさせた。れんがの外壁にアンティーク加工を施し、かつて北前船で取引する物品などを保管していた室内には船室をイメージした家具をそろえた。現代風によみがえったこの建物は、日本デザイン振興会(東京)の2022年度「グッドデザイン賞」に選ばれている。
一方で、橋谷株式会社はJR五稜郭駅前の社有地を再開発してパン店を誘致。隣地を、まちの価値を上げる広場「Hakoniwa(ハコニワ)」とし、キッチンカー営業スペース等として開放するなどの取り組みもしている。秀一は橋谷本家についてこう語る。「橋谷家のレガシーを象徴する建物として引き継ぎ、弁天町の倉庫を貸別荘にリノベーションした経験を生かして、現代のライフスタイルに合わせることで建物の価値を高め、新たな街の交流の場としたい」 (敬称略)