NPO法人 はこだて街なかプロジェクト
 

歴史刻む建物愛して
ラ・コンチャ 旧深谷米穀店(函館市末広町)
 
中川大介

 
  
 明治後期から昭和初期にかけて、函館経済の「心臓部」とも言われた函館市末広町の一角に、スペイン風バルレストラン「ラ・コンチャ」はある。
 1階が格子窓や引き戸のある和式、2階が縦長窓の洋式という函館独特の上下和洋折衷様式。軒下の持ち送り、胴蛇腹、下見板張りと和洋の様式が見事に調和し、旅人がそぞろ歩く旧市街の街並みを華やがせる。
 2004年までは「深谷米穀店」と呼ばれていた。明治の半ば、加賀・大聖寺(現石川県加賀市)から来た深谷仁三吉(にさきち)が、問屋勤めから独立して米穀店を開き、この広々とした店舗兼住宅を建てたのは1917(大正6)年のことだ。
 露領漁業の拠点であり、海産物の輸出港として栄えた函館は全国で十指に入る大都市だった。北前船を通じて縁の深い北陸地方から、人びとが夢を抱いてやってきた。仁三吉も、函館で成功した同郷者のもとで奉公すべく海を越えてきたのだ。
 末広町には商店が軒を連ね、百貨店、銀行、写真館、新聞社、官公署が立ち並んだ。深谷米穀店の得意先は近隣に多くあった海産問屋。大工の家に生まれ、北陸の建築文化の中で育った仁三吉のこだわりだろう、この建物にはヒバや紫檀といった上質の材が使われている。
 
大家族の中で
 
 「一時は18人がこの家に暮らしていた。いつも、どこにでも人の気配があった」。仁三吉の孫の深谷宏治(1947年生まれ)は、この生家に深い愛着を抱いている。
 表と裏、二つの2階建てが、立派な床の間や欄間を備えた和室、台所などがある1階部分で「コ」の字型につながっていた。表・裏の2階は各3室。奉公人の部屋だったが、宏治が小学生のころには叔母2人の家族が住み、1階に住む祖父母や宏治の一家と大家族をなしていた。
 いつも誰かがそばにいる暮らしは、気遣いや我慢をも必要とした。中学に入ると2階の部屋が空き、「表2階」の四畳半が宏治の部屋になった。「部活が終わると友達がうちへ集まって話し込んだ。兄貴の友達も来ててね。広い家だから集まりやすかったんだ」
 社交的で大の料理好きだった母ヒロ子は、手づくりの菓子や飲み物で来客をもてなした。料理やパン作りの教室も開いた。深谷家ではクリームコロッケやグラタンなど洋食が出され、同じ末広町にある老舗レストラン「五島軒」の一家と親しかったこともあって、宏治は幼いころから洋食の文化に親しんだ。
 
歳月を経ても
 
 東京理科大で学んだ宏治は、大量生産・消費型の社会で成長を追求する企業人の道を選ばなかった。「兵器開発や環境破壊には与さない」と、理学・工学とはほど遠い料理人の道に進む。ツテもないまま単身渡欧し、スペイン・バスク地方のレストランで修業。1977年に帰国し、85年には函館で本格的なスペイン料理の店「レストラン・バスク」を開いた。行動力と大胆さは祖父譲りか。
 帰国後の住まいは歳月を経た生家。幾度も改修して住みこなす。「あんな古い家に、と周囲に言われたけど、他の選択肢はなかったよ」
 叔父が祖父から継承した米穀店を閉じた後、1階を改修して「ラ・コンチャ」を開いたのは2005年。和洋の様式が融合した飲食店として再生させた。精米機があった米穀店部分も、家族が起居した奥の和室も、人びとの歓談の場となった。
 コロナ禍で21年夏から休業し、宏治らが始めた飲み歩きイベント「函館西部地区バル街」が開かれる春と秋の計2日間のみ営業したが、宏治は23年の暮れ、「バスク」を休業して「ラ・コンチャ」に注力すると決めた。「ラ・コンチャ・イ・バスク」の名で、24年1月から再開する。
 地域の食材を生かした料理と街並みを存分に楽しみ、語らう―。それを至上の喜びとする宏治の気質は、歴史ある建物での大家族の生活の中で育まれ、地域固有のもの、古いものを大切にするスペインの文化にふれて確たるものになった。祖父から受け継いだ家と、街への愛が、函館を「食のまち」として輝かせている。(敬称略)
 
 

~サイドストーリー~
 
街を創る、社会にかかわる
 

 
原型残した「意志」
 
 2024年で建築から107年になる函館市末広町のバルレストラン「ラ・コンチャ」の建物は、実は正面の2階建て部分を残して取り壊されていたかもしれなかった。
 オーナーシェフの深谷宏治は1977年にスペインから帰国し、79年に函館へ帰郷。結婚して自身の生家であるこの店舗兼住宅に住んだが、断熱性などで現代の住宅と差がある古い建物を住みこなすのは容易ではなかった。たびたびの改修には多額の費用がかかり、ついには米穀店だった正面の2階建て部分のみ残して、1階奥の座敷や台所などと裏の2階建て部分を取り壊し、住居を新築する設計図を描くに至った。1999年のことだ。
 建物をそのまま残したい。でも建築関係者は「難しい」と言う。苦渋の思いでいた深谷に、声をかけた人がいた。
 「深谷さん、なんでこれ壊すの。改修は大変だけど残せるよ」
 函館市内で建築会社を営んでいた輪島彰(1944年生まれ)だった。「建物を見て、これは残せる、と思った」と回顧する。「古い柱が残っていて、ヒバとかいい材料が使われていてね。絶対に壊しちゃだめだと思ったんだ」
 輪島は歴史ある建物が並ぶ函館市元町で生まれ育ち、古い建物の再生を手掛けてきた。「壊されるのが痛ましくてしょうがない」と語る輪島の信条は、ひたすら「その建物で使われている技術を見てまねる」こと。「木材の継手ひとつとっても、技術がそこで用いられていたのには理由がある。今から見ても、すげえ技術だなあって思うんだ」
 輪島は正面の2階建て部分と1階奥の座敷、台所や庭などを残し、裏の2階建ては土台や柱を残して解体して、原型に近い形に再建した。可能な限り使える部材は残して、新しく使う部材も、もとあったのと同じ種類の良質材を使った。「ラ・コンチャ」が大正期以来の姿をほぼとどめている背景には、長い時を経た建物を大切にしたいという人たちの強い意志がある。
 
調和した街並み
 
 深谷米穀店が建てられた大正期の函館は、北洋で漁獲されたサケマスや、沿岸でとれる昆布、ナマコをはじめとする海産物の集積地であり、中国や英国などへそれらを輸出する国際貿易港であった。中国の辛亥革命(1911年)、欧州での第一次世界大戦勃発(1914年)といった国際情勢の影響で、軍需食料品となる豆類や澱粉、火薬や肥料の原料となる硫黄など農産品・鉱産品の輸出も伸びて、函館経済は空前の活況を呈するのだった。
 深谷の祖父仁三吉を加賀・大聖寺から引き寄せたのは、そんな活況だった。函館経済の中心地は、天然の良港と言われた函館港の周辺。特に末広町界隈には、港沿いに倉庫など港湾施設が置かれ、周りに海運業や海産物商、船舶関係の卸売業、金融機関などの事業所や住宅兼店舗が立ち並んだ。
 戦後になると経済や居住の重心は市の北部へ移り、末広町など西部地区からは次第に活気が失われてゆく。半面、この旧市街は昭和の高度経済成長期やバブル期も近代化の波を免れて、和風、洋風、擬洋風、和洋折衷といった様式をもつ古い建物が部分的に残り、それぞれが調和した落ち着きのある歴史的景観が保たれたのであった。
 明治期に開港場として海外に開かれ、日本の伝統文化と異国の文化が折り重なるようにして融合した函館独特の景観である。1970年代以降、造船不況、青函連絡船の廃止など地域の苦境が続いた中で、この街並みや赤レンガ倉庫群といった独特の都市景観は全国に知られる観光資源となり、観光は地域の主産業となった。
 しかしそれでも、マイカーの普及などライフスタイルの変化や雇用の場の減少などから、旧市街での人口減少や空き家、空き地の増加は今も止まらない。昼間は観光客の姿があっても、夜は人けのない街となっているのが現実である。
 
大切な財産
 
 そんな旧市街に、人の流れを取り戻したい。それが深谷宏治の願いだ。
 自身が生まれ育ち、深い愛着を抱くこの街並みを散歩するのが深谷の朝の日課である。胸には、スペイン・バスク地方での修業時代の師である料理人ルイス・イリサールの教えが刻まれている。
 「料理人が街を創り、社会にかかわる」
 イリサールから学んだのは料理の技術のみならず、料理人とは地域と社会にかかわる存在であるということだった。地元のすぐれた食材を生かした質の高い料理を地域全体で提供できれば、多くの人が訪れて街全体が活気づく。そして、食材も、料理店も、歴史を刻む街並みも、大切な地域の財産であることに、人びとは気づくだろう―。
 深谷が仲間とともに、バスク地方に倣って平等や誠実さを重んじながら料理を作り、味わう会員制の社交クラブ「ソシエダ」を立ち上げ、港沿いにある海産物問屋だった明治の建物を復元して再利用したことも、また各地から函館に招いた一流の料理人と料理哲学について語り合う「世界料理学会」を発意したことも、そんな思いが底流にある。
 2004年に深谷ら市民有志で始め、今や全国に知られるイベント「函館西部地区バル街」もその流れにある。参加者が旧市街を歩き、参加店でチケットを出せばピンチョス(おつまみ)一皿と飲みものを一杯手にできる。仲間同士、見知らぬ者同士が気さくに語らい、街並みと土地の料理を堪能できる「バル街」は、函館から各地に広がった。
 春と秋の年2度のその開催日だけでなく、旧市街がいつも人びとの楽しげな声の響き合う場であってほしい、と深谷は願う。「建物は生きていてほしい。何らかの形で使われて、人間の気配がそこにあるような形で」。2024年1月から「ラ・コンチャ・イ・バスク」として再スタートするこの店で、料理の腕を振るい続ける。(敬称略)
 

 
 

上下和洋折衷様式の「ラ・コンチャ」。「函館西部地区バル街」の夜、灯りがともり、人びとが集う


 

「ラ・コンチャ」の店内。天井の梁を見せるなど米穀店時代の趣を残しつつ、現代風に改造している

 

1階奥の和室に立つ深谷宏治。かつて自身の一家が暮らしたこの部屋は、団体客が歓談する場となった

 

縦長窓が印象的な「表2階」。深谷が子ども時代は叔母の一家が暮らしていた

 

建物に「コ」の字型に囲まれた庭。「和」を強く感じさせるこの庭は、改修を重ねても残された

 
 

「裏2階」に設けたリビングルーム。年2回開く「函館西部地区バル街」のポスターが壁面を彩る

 

横から見た「ラ・コンチャ」。表と裏、二つの2階建て部分がつながっている構造が分かる

 

庭を囲む1階廊下に立つ深谷宏治。築100年を超す生家を改修して住みこなすのは、この建物への深い愛着ゆえだ

 
 
 
写真/ FOLPHOTO 水本健人