函館港を見下ろす「船見坂」は、その名の通り往来する船がよく見える。中腹に、ピンク色の外壁が目を引く建物がある。昭和初期から95年間、親子3代が守り続けた「大正湯」である。
手ぬぐい片手に、ほんのり上気した顔で行き来する人びとの姿が、かつてそこにあった。
洋風建築のエッセンス
大正湯の創業は1914(大正3)年。初代経営者の小武三蔵は新潟出身の船大工だった。北海道開拓の拠点として発展し、漁業や貿易で活気みなぎる函館に来て、北太平洋で操業する北洋漁船に乗り込み、船の修理を生業とした。
当時、港の周りでは漁師や港湾労働者の生活に欠かせない銭湯が急増していた。三蔵は危険な北洋で自分の身に何かあった時に備え、函館に残した家族の生活のすべとして銭湯業に目を付ける。函館市弥生町にあった古い銭湯を買い取り、船大工を続けながら銭湯経営に乗り出した。屋号は元号にちなんで「大正湯」とした。
それから十余年。建物・設備に傷みが目立ち始め規模的にも手狭となったため、三蔵はその一つ上の通りの土地を借りて、晴れて銭湯を新築した。それが現存する大正湯。1927(昭和2)年のことである。
下が和風、上が洋風の上下和洋折衷様式で、入り口から脱衣所、浴室、バックヤードと続き、1階の一部と2階は住居。竣工時の外壁はモスグリーンだった。軒を支える「持ち送り」は優美な曲線を描き、1、2階を区切る「胴蛇腹」、正面のペディメント(切妻屋根の下の三角壁面)、入口の「大正湯」の文字の脇の出隅を飾る蛇腹と、洋風建築のエッセンスが随所にちりばめられている。
国防色からピンク色へ
三蔵は、仕事で訪れたロシアで建物の美しさに感銘を受けていた。これをヒントに、函館の街並みに馴染む和洋折衷のデザインを採り入れた。洋館のような建築は当時の函館では珍しくはなかったが、こと銭湯となるとサッと入って出る客が多く、火事も多いために簡易なバラック小屋のような建物がほとんどだったという。大正湯は異彩を放っていたことだろう。
三蔵は自ら図面を起こし、信頼する友人の大工、野村竹松に棟梁を依頼。自身は施工には携わらなかったが、番台だけは自分で造ったという。釘を使わない船大工の技法を用いて、湿度の高い銭湯内でも錆びることのない番台を造り上げたのだった。
その番台に座った二代目が息子の小武茂だった。絵を描き、カメラを趣味にした芸術好き。終戦後に27歳で家業を継ぎ、戦災復興の激動の時期、新しい時代に適応した経営を試みる。1958年に74歳で亡くなった父の築いた伝統を守りながら。
材木屋で勤めた経験から木材を見る目があり、茂は建物の傷みをいち早く見つけては小まめに修繕した。戦時中、「国防色」のカーキ色などに塗られていた外壁を明るいベージュ色に塗り替え、さらにベージュに赤を混ぜて薄いピンク色に仕上げた。浴室の改修でも、ワイングラスのようなモダンな柄や桜の花の柄のタイルを配するなど、持ち前の芸術センスを発揮したのである。
待つ人のために
2009年に91歳で急逝する前日まで、茂は番台に座っていたという。亡くなったのは定休日だったが家族が入るために湯を張り、入浴後に脱衣場で旅立った。
三代目の小武典子は茂の娘。茂を失い、一人ではとても続けられない―と閉業を考えたが、近所の人から何度も声をかけられる。「まだ再開しないの?」
待っていてくれる人がいるのなら―。典子は休業から1カ月後に再開させた。再開と同時期に借地だった土地を父の遺産で購入したが、浴室の掃除は体力的にきつく、利用者の減少や燃料費の高騰で経営は赤字ギリギリ。それでも期待に応えたいと営業を続けたが、ろ過装置の故障で突然の廃業を余儀なくされる。2022年8月31日を最後に、大正湯から客の姿は消えた。
初代がデザインし、2代目が修繕を重ね、3代目が大切に守った建物には、いまだに歪みが見られない。活用や保存の道は見えていないが、街並みに溶け込む「洋風の銭湯」は、まだ生命力を保っているかに見える。(敬称略)
戦後の隆盛
大正湯が最もにぎわったのは、2代目の小武茂が初代の父三蔵から経営を引き継いだ戦後まもなくのころかもしれない。
この時代、まだ自宅に風呂のある家は少ない。大正湯がある函館市弥生町でも、自前の風呂を持つのは大地主の1軒だけ。市内には大正湯を含め、80軒もの銭湯があったという。
函館では戦争で休止されていた北洋漁業が1952年に再開され、またイカ釣りなど日本近海での漁業も盛んで浜は活気にあふれ、上陸した漁船員や漁師が銭湯に汗を流しに来た。弁天町の函館ドック(現函館どつく)での造船業も活況を呈し、その従業員たちもやってきた。
大正湯は昼からの営業だった。午後は漁を終えた漁師が、夕方には函館ドックの従業員が仕事帰りに来る。客層や利用時間が分散して、湯船には客の姿が絶えなかった。船に乗る者は水が貴重だという感覚があるから長湯をしない。そのため回転が早く、多くの利用者を受け入れることが出来たのである。
燃料は薪のほか、造船所から安価な鋸屑(のこくず)を譲り受けて使った。茂は鋸屑を入れた重い袋をリヤカーに乗せて船見坂を上がっていたが、やがて免許を取り三輪トラックに切り替えて、鋸屑を多く仕入れるようになった。
店が繁盛していれば人手が足りない。当時は人件費が安かったこともあり、釜焚き、そして背中を流す三助も雇い、一方、小武家では子育て専門と賄い専用の家政婦をそれぞれ雇った。海外旅行にも行き、娘にはピアノを買い与えた。
茂は英会話を習い、好きなカメラを持って単身でロシア、アフリカ、エジプト、ヨーロッパなど世界中を旅して歩いた。時には番台に座り、時には海外へ。思ったことは何でも、黙って全部一人でやってしまう人柄だったという。こうして自由に行動できたのも、妻・京子が家を守ってくれたおかげである。
函館で生まれた茂は地元の商業高校を卒業後、東京・築地にある名の通った材木屋に就職した。戦時中、召集令状が届いたが、徴兵検査の際に盲腸をこじらせていて採用されなかった。東京で暮らしていたが焼け出され、終戦後、函館に戻り大正湯を継いだ。性格は寡黙で勉強家。芸術を愛し、函館の画家・三箇三郎(さんかさぶろう)に師事して絵を描くほどだった。
大正湯の垢抜けた内外装には、茂の芸術センスが生きている。
父の背中見て
小武典子は、そんな茂の背中を見て育った。嫁いで家を出たが、1978年に母・京子が亡くなった後、息子を連れて戻って来てからは大正湯の仕事をずっと手伝ってきた。弟たちは東京で就職し、跡継ぎといえば自分しかいない。茂も典子の将来を考えてか、全ての仕事を典子に覚えさせた。典子の負担を減らすためか時代の流れか、業務の機械化も進めた。典子は寡黙な父に寄り添い、父と二人三脚で大正湯を経営して来た。
茂の急逝からの13年間は女手一つだった。高度経済成長の時代から家庭に風呂が普及し、近年はスーパー銭湯の台頭もあって、昔ながらの銭湯の利用者は激減している。でも、この周辺では大正湯が最後の銭湯だった。自前の風呂を持たない住民にとって、大正湯は生活の一部であり、交流の場でもあった。そうした人びとの生活を支えたいと、典子は湯船や床を洗い、ボイラーを炊き続けてきた。
ろ過装置の故障により苦渋の思いで2022年に廃業した後、高齢の住民は市電を乗り継いで、谷地頭町の谷地頭温泉まで湯につかりに行く。その光景を見るにつけ、典子は「続けられなくてごめんね、迷惑かけてごめんね」と忸怩たる思いをかみしめる。
祖父が建て、父と自分が守った大正湯のピンクの外観は、廃業後も美しいままだ。
茂が下見板張りの外壁をピンクに塗った当時のペンキは、色が退色しやすかった。特に赤のペンキはすぐに色褪せて、外壁全体がすぐに白っぽくなってしまったという。2019年ごろに塗りなおした時、典子は近年ペンキの性能が良くなっていたことを忘れて赤を濃くしてもらった。どうせまた、白く抜けてしまうと思ったからだ。
「そうしたら、全然落ちないの。ペンキの性能が良くなっているから、赤が濃いまんま!私、このピンク好きじゃないんだけど」と典子は笑う。「もっとベージュとピンクを混ぜたような色にしたかったんだけど、赤が全然落ちなくて納得してないの」と続けて、「でも良い色ですね、って近所のみんなに言われたのよ」。うれしそうに言った。
街並みを引き立たせる「洋風の銭湯」に寄せる典子の思いは変わらない。
「兄弟分」の銭湯
実は、函館には大正湯と「兄弟分」ともいえる銭湯があった。
1914(大正3)年に始まる大正湯の創業の地は、現在地より一つ下(港側)の通りにあった中古の銭湯だったことは前に述べた。三蔵は年を重ねて体力の衰えを感じると、船を下りて銭湯経営に力を注ぐようになり、1927(昭和2)年に現在の2代目・大正湯を新築した際、そこから五稜郭方向、すなわち北東に直線距離で3キロ余り離れた松川町にある土地を購入したのだった。
この土地に、初代・大正湯をそっくりそのまま移築。この古い銭湯を修繕して、三蔵は「豊作湯」と名付けた。息子のうち兄・小武三雄がこの豊作湯を、弟・小武茂が大正湯を継ぐ。息子たちはどちらも、当初は銭湯とは全く異なる職種の会社に就職している。三蔵が当初から息子たちに継がせるつもりだったのかはわからないが、公衆浴場の需要が高まる世情を鑑みていち早く銭湯経営に乗り出し成功するあたり、先見の明があったのだろう。兄弟はどちらも、若いうちに会社を辞めて銭湯経営を引き継いでいる。
晩年の三蔵は、大正湯と豊作湯を行ったり来たりして、同居の孫が祖父の姿をほとんど見たことが無かったというほど忙しくしていたようだ。
その豊作湯も、大正湯に先立つこと10年、2012年に廃業に至った。市内では銭湯の廃業が相次ぎ、風呂のない家や公営住宅などに暮らす住民が「風呂難民」化して社会問題となっている。湯につかりながらの心安らぐ語らいさえも消えていくのだろうか。(敬称略)